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15件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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2019-05-29 第198回国会 参議院 東日本大震災復興特別委員会 第5号

また、生涯学習重要性水戸弘道館当時日本最大藩校でしたが、入学年度は十五歳、卒業年度はありません。そういうことを考えると、学ぶことは一生、生涯だという、これが最大の健康、物心両面という言葉もあるように、物も心も豊かな日本人を育てるというのが私は大変重要だと思いますけれども、こういう考え方について大臣のお考えをお聞かせいただきたいと思います。

岡田広

2011-04-14 第177回国会 参議院 内閣委員会 第4号

水戸藩の九代藩主徳川斉昭公偕楽園弘道館を造られた方ですが、最も好んで使った言葉は、備えあれば憂いなしという言葉だったそうです。まさに、どんな状況に遭遇しても柔軟な対応ができる、資質を高める、魅力を高めていく。備えをするというのはとても大事なことだろうと、私はそう思っていますので、是非お願いをしたいと思っています。  今回の震災で多くの方々が住むところを失いました。

岡田広

2006-12-05 第165回国会 参議院 教育基本法に関する特別委員会 第8号

それで、それを学校総合学習の方へ取り入れたりということで、山口県の萩市なんかにもちょっと松陰の読本があるということで取り寄せたり、あるいは岡山の閑谷学校とか水戸弘道館とか、そういうようなところをたくさん見て回ったんですが、さあ果たしてやろう、これはできるぞと思ったら、学校先生方がそういうことに全く興味がないんです。

白川剛久

2006-11-29 第165回国会 参議院 教育基本法に関する特別委員会 第5号

私は水戸ですから、水戸には弘道館というのがあります。弘道館水戸学を学んだ最後将軍慶喜公もそうです。この弘道館をつくった斉昭公が最も好んだ言葉は、芸に遊ぶという、これは生涯学習、そしてもう一つは備えあれば憂いなしという言葉だったそうです。どんな状況に遭遇しても柔軟な対応ができる、そういう資質、それを備えていくという。  

岡田広

2006-11-29 第165回国会 参議院 教育基本法に関する特別委員会 第5号

先ほど弘道館の話しましたけど、弘道館入学年度は十五歳です。卒業年度はありません。これは生涯学習のはしりかなと、私はそうとらえていますけれども、ここで学んだ最後将軍慶喜公は、将軍を辞めてから、謹慎が解かれて静岡に移ったその後の生活は、猟をやったり、カメラやったり、宝生流の謡曲をやったり、あるいは釣りをやったり、手裏剣も名人だったそうです。

岡田広

2005-05-18 第162回国会 衆議院 国土交通委員会 第18号

それからもう一つは、弘道館という、これはもともとの水戸城、これは水戸藩士というのは、ずっと在府、江戸におりましたけれども、弘道館水戸城の敷地内にある。そこをやはり結ぶような、歴史的な回遊性を持たせて、そこに何か商店街とかそういったものをつくる、そういう形だったら、まずほかの町ではやはりこれはまねすることができないわけです。

葉梨康弘

2005-03-10 第162回国会 参議院 国土交通委員会 第3号

正に、天災は忘れたころにやってくるという言葉がありますけれども、水戸弘道館偕楽園を造った徳川斉昭公、七百年近く続いた武家政治最後のカーテンを引いた人は徳川慶喜公であります。その慶喜公のお父様でありますけれども、この斉昭公が最も好んで使った言葉は備えあれば憂いなしという言葉でありました。

岡田広

1999-08-09 第145回国会 参議院 国旗及び国歌に関する特別委員会公聴会 第1号

実際、これは天皇陛下自身のお誓いになった言葉なんで、天皇陛下自身が御自分を「千代に八千代に」なんということはおっしゃらないわけでして、ではそれはどういうふうにつながっていくのかというところが、これがその少し前、幕末のいわば明治維新の精神的な支えになった思想の一つなんですが、弘道館記述義といういわゆる後期水戸学の主著がございます。

長谷川三千子

1998-04-22 第142回国会 参議院 本会議 第22号

大河ドラマで登場する水戸藩主徳川斉昭は、日本一の藩校弘道館を開校しました。その弘道館において吉田松陰が尊敬しました会沢正志斎総裁のもとで、徳川慶喜先見性実践性国家的視野を重視する水戸学の真髄を学んだのであります。  今、第三の国難の時代と言われておりますが、総理、進むも引くもあなた御自身の選択であります。

小林元

1954-02-08 第19回国会 衆議院 予算委員会 第7号

それは昨年の六月でしたか、水戸弘道館において救国懇談会というものが発足しまして、これからだんだん動いて参りました。これも戦前と違います。戦前は大体右翼の人はみんな一城のあるじでありまして、横の融合というものはあまり見られなかつたのでありますが、このたびはそういう統一的傾向があります。

犬養健

1953-11-20 第17回国会 参議院 法務委員会 閉会後第2号

今年の六月十三日に、水戸弘道館で、橘孝三郎本間憲一郎が中心になつて、救国懇談会を開いて、これに戦前右翼が担当集まつておるのでありますが、その後、各地方でそういう動きがありまして、現在のところ、最近のそういう動きとしては、九月二十二日に大阪の中ノ島公会堂救国運動全国協議会準備会というものが持たれております。準備会自体には約百六十名ほど集まつております。

高橋一郎

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